昭和56年『8月6日 朝のご理解

ご理解第九十四節
 信者に不同の扱いをすな.物を余計に持ってくると、それを大切にするようなことではならぬ.信心の篤いのが真の信者じゃ.

 昨日は壮年会でございましたが、それぞれ皆さんの発表を聞かせていただいて、また、私の話を聞いてもらった訳ですが、せんだったここで講演会が大部先生が見えられた時の事を話させて頂いたわけですけれども、もうお話が終わられて、それで私の部屋でお茶を差し上げ、そして私の部屋でお食事を差し上げました.
それで、お食事の準備は何人にしたらいいだろうかと言うので、それは結局総代さん方、それに主な信者さんたち、所があそこは狭いから、まぁ6人が精一杯だから6人に絞らせてもらおう。
それで、、まぁお付き合いさせていただくのが、信徒会長、それから竹内先生、それから日田の綾部さん、それに私と先生、ちょうど六名。それで総代さん方は残られたらこちらた私の部屋のほうで、一緒にご飯を頂いて、私はもう、長くはお相伴は出来ないから、若先生とすぐ変わるから、と言うてまぁ、総代さん達が二人残っていました久富重雄さんも残っておられましたか、私と四人で、まぁ隣の部屋でまぁ、同じ料理ですね、が頂いた事です。
どうでしょうか、これは不同の扱いでしょうか。それで私は総代さんがタと一緒にお食事を頂きながら、申した事ですけれども、今日はね、私が、信徒会長とそれから綾部さんと竹内先生、それに講師、私、それだけだったかね。とにかく六名、だから、どんなに考えてもやっぱり講師の先生たちの相田をしながら、お食事するのにふさわしい、いうなら、総代さん達と信者さんとを区別したという事になるでしょうか。
結局私は思うんですけれども、その事を総代さん達にも話した事ですけれども、なら、あそこに私の他に、まぁ五人の、講師と五人の方達を見てからね、あんた達と一回り信心が大きいぞ、と申しました。田からあんた達が一人入ると、粒ぞろいというけれども、粒が一つこまい。粒が。
というような事で、昨日の信徒会は一回り大きくなろうというような事が中心にお話が進められましたけれども、例えば、まぁ、竹内先生なんかは市長として、信心も人格も皆さんがご存知の通り、綾部さんの場合は女ながら体が堂々としちゃるという訳ではなくて、私はその翌日に話を聞かせて頂いたのですけれども、明日講師の先生がみえるという事じゃが、どういうおご馳走を持って来たらよかろうかと前の日からずっと考えた。朝食事の御用をする人達から、今日はどういうお膳立てでお食事差し上げたらよかろうかというようなことがあったけれども、これは私の領域ですから、あれを作りなさいという物はないけれども、いわば真心を込めて作りなさいという風にいうておりました。
ところが、実際お膳立ての前に座らせて頂きましたら、もうそれは見事な、本当に思いを込めたおご馳走が六人前出ていました。
前の日からいうなら、綾部さんが本気で教会の事を思わなければ、思いもしなければできもしません。
そういう意味合いで、なら、やっぱり、いうなら自分の事ばっかりしか願えんのが協会全体の事を本気で願うだけなら誰でも出来ろ。
けれども、それに裏付けのある信心というものはができるという意味合いに於いて、誰よりも一回り大きかろうが。
秋永先生の場合なんかもそうです。別に体が大きい、そういうこっちゃない。タイプがいいという事でもない。いうなら、合楽教会という事を芯にして、合楽教会が大きく広がっていく事の為に、大きな会議も出らせて頂いて、それだけの、他のものでは出来ない御用をさせて頂いておる。
だから、話もやはり合いもすれば、そこに相手をさせてもらうのに、おかしくない。
だからとにかくね、自分達の信心をもう一回り大きくしなければいけないよと言うて私は昨日まさき先生が発表しておった事にたいして後にお話をした事なんですけれども、もう、いうならば正確な信心というならば、まさき先生の右に出るものはおらんでしょうが。ね。
また、仕事の上にもその正確さは信心そのものである。昨日の発表の中に合楽の仕事をしておる様々な事があります。腹を立ててはならぬと思っておっても、なんとはなしにもやっとしたものが起こるような事があるけれでも、毎日の日参、そして教聴、その頂いた御教えがその日一日私を支えてくれておる。
その日も、なんとはなしにもやもやとする、これは大きな問題だったそうですけれども、朝のご理解を頂いて、ナスの花は千に一つもあだもないというあのご理解を頂いたときの事を思わせて頂いたら、心がすっきりして次の問題にかかる時には、それがすっきりおかげになっておったというようなお話ですから、それはすばらしいです。
教えを日々支えにしておるという意味でも正確です。
なら、ご参拝という事、総代としての御用といった事にでもまぁ、合楽でいうならば実意丁寧神信心がいうなら出来ておるわけです。今日のここのご理解でいうと手厚い信者とこういわれます。だからここのご理解を頂くと、神様は取次ぎ者、教師には不同の扱いをすなよとこうおっしゃられておって、神様は不同のあつかいをしておらっしゃるということ、信心の手厚い人にはおかげをやってあるじゃないですか。私は最後のところでこう思ったのです。なるほど政昭先生がおかげを頂かれるという事はそういう手厚い信者としてのおかげをいただいておるから神様もまた、きちっとする几帳面な信心をするから几帳面なおかげを下さるのだ、ならその内容たるや朝の日参、教聴、その教聴だけではなくてその頂いた教えがその日の支えになっておるどんな場合におってもそれを確実に行じておる守っておるのである。
いうなら信行心行家業の行である。それが出来たり出来なかったりではなくて、まぁ合楽ではですよ、最高だろうと私は思うです。
だから、最高的な、やはりおかげを下さるという事になると神様はやっぱりそれを信心が出来ても出来なくても(   )違う。
私が、支部長の方と総代の方とを別々にして、もちろんそこに六名しか座れなかったかですけれども、私があなた達をこちらへして、向こうに信者さんたちをしたのはどんなに考えてもあんた達は粒が小さい。まだ、合楽の総代として粒がこまい。
だから夕べも申しましたように、もう一回り大きくなれとおっしゃる。
手厚い信心という事が手厚い信心であればよいということではない。それが大きくなれと。
先だってからもう、本当にもう胸がじーんとするような御夢をまさき先生が頂いておる。ははぁこれはもう一回り大きくならなければいけないなぁ。その時私は感じたんです。ですからその事を、ま昨日話した事ですけれども、とにかく一回り大きくなるとはどういうことかと。
ひまわりの幹太くしてはげしさもというご理解を先だって頂きましたよね。だから、合楽の信心に向日葵が熱い方へこう回っていくように、それこそ、たくましい幹であり、いわゆるあの炎天下に熱い方へ咲く、しかも、熱い方へ咲こうというその激しさというものがある。ということでございましたが、ただ、向日葵のおかげを頂いています、日々出来ても出来なくてもおかげを頂いています。ずうっとリズムをかんじながら毎日を生活しておりますというのは合楽には多いです。
その前の神愛会の先生方の話を聞くと、一人一人の話が本当に合楽的リズムにのっての日々の御用が出来ておるということです。
向日葵の花ではあるけれども、その激しさというのが昨日のご理解です。
ここは、という所にです、これほど信心するのにどうしてということは合楽の御信者にはいやしません。合楽理念を紐解けばすぐわかる事だから。
これは信心が足らぬのじゃと信心してごらん、そこからのおかというものがです、激しさがねければできるこっちゃない。激しいまでにその事に打ち向かうという、ただ、向日葵の熱い方へ向いております、合楽理念でいっております、だからいうなら、リズムにのった日々でございます。というだけでは、いつもリズムにのった日々だろうけれども大きくならん。
そこを乗り越えるためには、激しさがいる。という話を昨日、壮年会の時に話させて頂いたんですけれども、私は教のご理解を頂いて、、なるほど、信心の手厚いのが真の信者とおっしゃるが、そういう意味であるならば、なら、まさき先生なんかは手厚い信者であろうと思う。
だから、それで良いという事ではない、おかげを頂いておる、神様の働きを毎日実感しておる、だけではなくて、そこに一つの激しさというものが、まぁ、熱烈というてもいいかもしれません。まぁ、どういう風に頂いたらいいでしょうかね、というものがこれでいいとはおもわないなら、次の信心にてをかけていかんんじゃん。まさきさん、あんたの信心の粒がこまい、もう一回り大きくなんなさい。という時には、そこに激しさが生まれてなければできてこないのです。
だから本当に信心の篤い真の信者、だから、真におかげもそれにともなってついてくるけれども、その真のおかげがもう一回り、久富建設にもう一回り大きな久富建設のおかげを頂く事の為には、激しさというものがいるだと。
まぁ、今日は妙な話を致しましたがね、神様は人間氏子には不同の扱いをすなと取次ぎの先生にはいうておられる。けれども、ご自身がやっぱり信心が手厚いのじゃ手厚いおかげを下さってあるし、しだこだな人にはしだこだなおかげをやってなさらんから不同な扱いをして。だからね、普通でいう不同の扱いとは違うということなんだ。いうなら私が信徒さん、まぁいうならば、合楽でのハイクラスの人達が講師の相手をしたと。それは、タイプとか態度じゃなくて、その人の信心内容が一回り大きいんだと。また、そういう人を集めたわけじゃない、けれどもそういう風にちゃんとそろっておられたという、まぁ神ながらなおかげのなかにでしたけれども、総代さんは別室で私と一緒にお食事を頂いた。内容は同じであっても。
そして、私がうちの総代だからいいよることですけれども、あんただん粒が少し細かばい。もう一回り大きくならなという、私が総代にかける願いというものを聞いていただいたわけですけれども。そこにね、いうならば、不同の扱いのようであって不同の扱いではないということを今日は聞いて頂きたかったのです。
いつも言うようにね、まぁ久富先生は亡くなりましたが、久富先生がもめておった時分に、
先生は私に焼酎を出す、秋永先生は飲みきれないからビールかぶどう酒を出す。はぁ親先生はあの人はウイスキーが好きだからウイスキーを出す。片一方は焼酎を出してそげなん不同な扱いをしてから。そうじゃないでしょうが、久富先生にウイスキーを出さなんならんのじゃない、久富先生には焼酎でちょうどよかというのではない。そういうところから私は今日のご理解をかんじて、皆さんに聞いていただいたわけですけれども、とにかく、神様から不同の扱いを受けるくらいの信心をしたいですね。
どうぞ。